EBPM
事例編#03|ニュージーランド幸福予算とは何か——ウェルビーイング予算の理想と2026年の軌道修正
このエピソードの概要
国家の予算は、何を「成功」とみなすのか。GDPか、財政黒字か、それとも国民の多面的な幸福か——。事例編第3回は、2019年に世界の注目を集めたニュージーランドの「ウェルビーイング予算(幸福予算)」を取り上げ、華々しい導入から2026年の現実的な軌道修正までを、政治的に中立な立場から検証します。
ウェルビーイング予算は、単なるスローガンではありませんでした。ルーツは1999年の政府内の議論に遡り、2011年には「リビング・スタンダーズ・フレームワーク(LSF)」が誕生。しかも主導したのは「幸福省」のような新設部署ではなく、財政の要である財務省です。国家の豊かさを財務・物理、人間、自然、社会の「4つの資本」に定義し直し、マオリのウェルビーイング観「ヒア・アラ・ワイオラ」も組み込み、全省庁の予算要求に費用便益分析ツールの提出を義務付ける——予算編成という国家のOSそのものを書き換える試みでした。
成果は分野によって分かれます。メンタルヘルスでは待機時間の短縮などの改善、家庭内暴力・性暴力対策では全政府アプローチによる社会的投資収益率の改善推定。一方で民族間格差は残存し、子供の貧困は直近で停滞。それでも、LSFダッシュボードが平均値の裏に隠れた構造的格差を可視化し「見えないフリをできなくした」こと自体が成果でした。
そして政権交代後、予算名から「ウェルビーイング」が消え、2026年の財政法改正では報告義務も削除。完全な廃止ではない「ハイブリッドな再編期」の実像と、公共部門9,000人削減が制度の実行能力そのものを解体しかねない矛盾を分析し、「幸福のROIをAIに委ねる時代が来たら」という問いで締めくくります。
文字起こし
出演:EBPM新聞記者・ヴェレ、EBPM新聞記者・シン
家計や会社の予算が「笑顔」を基準に配分されたら
ヴェレ もし皆さんの家庭や会社の予算が、単なる今年の利益や売り上げ目標だけではなく、「家族がどれくらい笑顔で過ごせるか」「将来の心の余裕」を基準に配分されるとしたら、どうでしょう。
シン 理想的ですよね。でも、Excelシートの真ん中にそういう「見えない価値」を置くのは、言葉にするのは簡単でも、実際にやるとなると途方もなく難しい。
ヴェレ そうなんです。数字の辻褄を合わせるだけではダメですから。今回の深掘り分析では、まさにそれを国家規模で実行しようとした壮大な試みについて、2026年時点での現在地に迫ります。
シン テーマは、ニュージーランドの「ウェルビーイング予算」。日本でも「幸福予算」としてかなり話題になった制度です。
ヴェレ 今回は、この制度の歩みをまとめた包括的な分析レポートと、過去に書かれた記事の事実補正情報を情報源として深掘りします。ミッションは、国家がGDPや経済成長だけでなく、国民の多面的な幸福や将来世代への持続可能性を、どうやって実際の予算編成に組み込もうとしたのかを解き明かすこと。2019年の華々しい導入から、2026年の現実的な軌道修正に至るまで、その試みが実際に機能したのかを見ていきます。
政治的中立の宣言
ヴェレ 本題に入る前に、一つだけ重要な宣言をさせてください。今回の情報源には、労働党政権から国民党などを中心とする連立政権への政権交代に伴う政策転換など、政治色の強い内容が含まれています。
シン 現地でも、かなり熱を帯びた議論になっているテーマですからね。
ヴェレ そのため本セッションは、いかなる政治的立場も支持しません。提供された資料に含まれる事実とアイデアを、完全に中立的な立場から客観的にお伝えします。
スローガンではなかった——1999年からの系譜と財務省主導
ヴェレ まず、当時のニュースでは「ついに国が幸福を予算化するぞ」と、かなりキャッチーに報じられました。そもそも「幸福の予算化」は、単なる政治家のスローガンだったのでしょうか。それとも、本当に実体のあるシステムだったのでしょうか。
シン 結論から言うと、単なるスローガンではありませんでした。2019年に突然生まれたアイデアだと思われがちですが、実は違います。情報源によると、ルーツは1999年の政府内の議論にまで遡ります。そこから2011年に、「リビング・スタンダーズ・フレームワーク」——略してLSFと呼ばれる枠組みが作られました。
ヴェレ 10年以上も前から、水面下で準備されていたのですね。
シン そうなんです。そして一番の特徴は、「幸福省」のような新しいふわっとした部署を作ったのではなく、財政の要である「財務省」が主導したという点です。
ヴェレ 財務省が、ですか。お金の計算に一番厳しい、お堅いイメージの役所ですよね。
4つの資本とヒア・アラ・ワイオラ
シン はい。その財務省が、国家の豊かさを「4つの資本」に定義し直したのです。財務・物理資本だけでなく、「人間資本」「自然資本」、そして「社会資本」です。
ヴェレ お金やインフラだけでなく、人や自然や社会のつながりも資本としてカウントすると。
シン さらに、マオリの視点である「ヒア・アラ・ワイオラ」という概念も活用されました。先住民の伝統的な価値観に基づく、ウェルビーイングの捉え方です。
ヴェレ 独自の文化的な指標も、しっかり組み込んだわけですね。
2019年予算——国家のOSを書き換える
ヴェレ それで、2019年の初回導入では、どんなところに予算が使われたのですか。
シン メンタルヘルスに8億2,300万NZドルという巨額を投じたほか、子供の幸福、マオリや「パシフィカ」と呼ばれる太平洋島嶼国系の人々の支援など、5つの優先分野に予算を集中させました。
ヴェレ これは例えるなら、単に「ウェルビーイング」という新しいアプリをスマホに入れたのではなく、予算編成という国家のOS——基本ソフトそのものを書き換えたようなものですね。
シン まさにその例えの通りです。システム設計の根幹が変わりました。新しいルールでは、全省庁が予算を要求する際に、「CBAx(シービーエーエックス)」という独自の費用便益分析ツールの提出が義務付けられたのです。
ヴェレ 銀行が融資をするときに、金銭的なリターンだけでなく、環境や社会的なリターンの証明まで全部署に義務付けたような、すごみがありますね。
シン ええ。ここで非常に興味深いのは、この制度の本質が、単なる主観的幸福度の最適化——つまり「今幸せですか?」というアンケートの点数を上げることではない、という点です。
ヴェレ 「幸福予算」と聞くと、みんなのハッピー度を上げるためかと思ってしまいますが。
シン もちろん最終的な目標はそこにあるかもしれませんが、行政システムとしての目的は、多面的なウェルビーイングと将来世代への持続可能性を、政府の投資判断に埋め込む「統治戦略」だったのです。
幸福は予算で買えたのか——分野別の成果
ヴェレ OSが新しくなり、予算というインプットが大規模に投じられた。では、コンピューターは実際にどう動いたのか。アウトカムが気になります。幸福は、予算で買えたのでしょうか。
シン そこが一番難しいところです。分野によって、結果はかなり分かれています。例えば、巨額の予算が投じられたメンタルヘルスの分野では、待機時間の短縮などの改善は見られました。ただ一方で、マオリやパシフィカといった特定のコミュニティ間の民族間格差は、依然として残存しているというデータもあります。根深い構造的課題は、一朝一夕には解決しないということです。
ヴェレ そう簡単にはいかないと。他の分野はどうですか。例えば、家庭内の問題は。
シン 家庭内暴力・性暴力(FVSV)対策では、一定の成功が見られました。ここでは警察や医療、福祉など、複数機関が協働する「全政府アプローチ」が取られたのです。サービスのアクセスや質が向上し、「SROI」——社会的投資収益率の改善推定などが見られました。防げた社会的コストをリターンとして評価する仕組みが、うまく機能した例です。
子供の貧困の停滞と、「可視化」という成果
ヴェレ それは素晴らしい成果ですね。ただ、ここからが本当に面白いところですが、資料を見ていて引っかかった部分があります。優先分野の一つだった「子供の貧困」です。2018年比では一部改善したものの、直近の2024年から2025年にかけては統計的に有意な改善が見られず、停滞しているとあります。直近で停滞しているなら、これは成功と呼んでいいのでしょうか。いくら予算の仕組みを変えても、結局はインフレや住宅市場といった、コントロール不可能な外部要因には勝てないということですよね。
シン 非常に鋭い指摘です。実際、予算を投じたからといって、それが直接的な因果関係として幸福度向上につながったと完全に証明するのは、外部要因が大きすぎて難しいのです。ただ、ここで忘れてはいけない重要な成果があります。ニュージーランドはもともと幸福度が高い国ですが、「LSFダッシュボード」という年に2回更新される指標群が、ある事実を可視化しました。平均値の裏に隠れた「構造的な格差」です。国全体としては幸せに見えても、若者や低所得者、特定の民族には問題が集中している。これをデータとして炙り出し、政策のテーブルに載せ続けたこと自体が、成果なのです。
ヴェレ なるほど。「見えないフリをできないようにした」ということですね。
2024年以降の方針転換——「成長予算」への舵切り
ヴェレ とはいえ、外部要因の強さや、結果をすぐに出すことの難しさが浮き彫りになったわけですよね。
シン はい。それがまさに、政権交代後の2024年以降の劇的な方針転換につながっていきます。まず象徴的なのが、予算のブランドから「ウェルビーイング」という言葉が外れたことです。代わりに「バジェット2024」、そして「ザ・グロース・バジェット2025(The Growth Budget 2025)」といった名称へとシフトしました。
ヴェレ 「成長予算」ですか。かなり方向性が変わった響きですね。
シン ええ。税負担軽減、経済成長、インフラ、そして財政再建へ大きく舵を切りました。実際、2025年の新規運営経費は年13億NZドルと、過去10年で最小に抑えられています。
ヴェレ 過去10年で最小。完全に財布の紐を締め直したのですね。
シン さらに制度面でも動きがありました。2026年の「パブリック・ファイナンス・アクト(財政法)」の改正で、財務省による4年ごとのウェルビーイング報告書の作成義務が、法的に削除されたのです。
事実補正——「法制化神話」と巻き戻しの実像
ヴェレ 報告義務が、法律から消えてしまったのですか。ここで、過去の記事などに対する事実補正情報についても触れておきたいのですが。
シン そうですね。日本の一部の記事などでは、誤解されている点も多いですから。
ヴェレ 「ニュージーランドのシステムは法律でガチガチに守られていて、政権が変わっても揺るがない」といった解説を、よく見かけました。
シン それは事実とは異なります。まず、LSFという枠組みそのものが法制化されていたわけではありません。また、ダッシュボードは四半期更新ではなく、概ね年2回です。そして何より、2020年の法改正で作られた報告義務などの継続性の担保は、今回の2026年の法改正で崩れました。つまり、一部で「巻き戻し」があったというのは、明確な事実なのです。
ハイブリッド状態——「再編期」のニュージーランド
ヴェレ つまり、結局どういうことなのでしょう。彼らは10年かけて築き上げたシステムを、完全に窓から投げ捨ててしまったのですか。それとも、名前を変えただけで中身は残っている、ハイブリッド状態なのでしょうか。
シン 完全な廃止ではなく、まさにハイブリッド状態——「再編期」と呼ぶのが正確です。予算方針書(BPS)には、依然として「ウェルビーイング・オブジェクティブズ(Wellbeing Objectives)」という言葉が残っていますから。
ヴェレ 言葉としては生き残っている。では、どうしてこんな中間的な状態になっているのでしょう。
シン 新政権のアプローチの違いです。彼らは、経済成長や財政規律こそが幸福の土台であると捉えています。土台がグラグラなままでは、持続可能なウェルビーイングは実現できない、という考え方です。
ヴェレ アプローチの順番が変わったと。国家システムとして定着させるのは、本当に波乱万丈ですね。
国際比較——「予算査定直接結合型」の特殊性
ヴェレ 他国は、こういうときどうしているのでしょうか。
シン 国際比較を見ると、ニュージーランドがいかに特殊な立ち位置だったかが分かります。例えば英国は、国家統計局による「統計ダッシュボード型」で、予算とは直接リンクしていません。カナダは予算編成を支援する「予算補助フレームワーク型」、フィンランドは政府全体の方針を示す「戦略型」です。それらに対してニュージーランドは、「予算査定直接結合型」なのです。
ヴェレ お金の出し入れに、直接幸福の指標をくっつけてしまったわけですね。
シン ええ。だからこそインパクトも大きかったのですが、財政方針の転換による影響も、まともに受けてしまうのです。
社会投資ファンドと、9,000人削減という矛盾
ヴェレ そんな中で、ニュージーランドの次の一手として、2025年に新しい動きがあったのですよね。
シン はい。「ソーシャル・インベストメント・ファンド(社会投資ファンド)」が創設されました。これは国全体の平均的な幸福を底上げするのではなく、「高ニーズ集団」へのターゲティングを強化する動きです。
ヴェレ より厳しい状況にある人たちに、ピンポイントでお金を投じる現実的な路線ですね。ただ、ここで私は大きな矛盾を感じるのですが。情報源によると、2026年の最大のリスクとして、財政再建の一環で2029年までに約9,000人——公共部門の雇用の14%が削減されると報じられています。財政を立て直すために公務員を削減する結果、まさに政府が重視したいはずの「多機関連携」や「長期的な効果測定」を行う分析チームの能力そのものを、解体してしまうリスクはありませんか。
シン これを大きな視点に結びつけると、まさに2026年最大の教訓が見えてきます。「ウェルビーイング予算は、導入することよりも、定着させ維持することのほうがはるかに難しい」のです。
ヴェレ 人がいなくなれば、複雑な費用便益分析も、省庁間の調整も回らなくなってしまいますものね。
シン 理念だけでは、行政は動きませんから。実務を担う手足が削られてしまえば、システム全体が機能不全に陥るリスクは非常に高いと言えます。
まとめ——「幸福」ブランドの輸入に意味はない
ヴェレ 本当に考えさせられます。ニュージーランドの経験から私たちが学べるのは、「幸福」というブランドを他国からただ輸入することに意味はない、ということですね。
シン おっしゃる通りです。予算、指標、そして複数省庁の協働を、一つの設計図に載せることの難しさがよく分かります。
ヴェレ 結局どの国も、経済成長と財政の健全化、社会的な公正さや幸福——この3つをどう統合してバランスを取るかという、永遠の課題に向き合い続けなければならないのですね。
シン はい。どれか一つを犠牲にして成り立つものではありませんから。
ヴェレ これを聞いている皆さんにとっても、決して遠い国の話ではありません。あなたの属する会社や組織、あるいは日々の生活における「お金と時間」という予算の使い方は、何を成功の指標としていますか。短期的な利益や効率だけを追い求めていないか。それとも、長期的な心の豊かさを大切にしているか。国家規模の実験が、その両立の難しさを生々しく教えてくれています。
最後の問い——幸福のROIを、AIに委ねるのか
シン 最後に、少し視点を変えてみたいと思います。もし、政府が多面的なデータを使って幸福を測定し、予算配分を決定するのがここまで複雑で政治的だとしたら——今後、AIが私たちの購買行動や行動履歴、さまざまなデータを読み取って、個人の幸福度のROI、つまり投資対効果を勝手に予測して最適化する時代が来たら、どうなるでしょう。
ヴェレ それは、すごくリアルで怖い想像ですね。
シン 私たちはその便利で賢いアルゴリズムに、「何が私たちを幸せにするのか」という究極の判断を委ねてしまうのでしょうか。それとも、葛藤しながらでも、自分たちで選び取るのでしょうか。
ヴェレ 幸福を、誰がどうやって計算するのか。国家がやってもこれだけ難しいことを、AIに丸投げしていいのか——深い問いです。ぜひ、ご自身でじっくり考えてみてください。というわけで、今回の深掘りはここまでです。
シン ありがとうございました。
ヴェレ それではまた次回、お楽しみに。
関連エピソード
Spotifyで聴く
Apple Podcastsで聴く
この活動を、一緒に続けませんか
EBPM新聞のPodcast・記事・文字起こしは、すべて無料で公開しています。広告も、有料会員制度もありません。「証拠に基づいて考える文化」を広めるこの活動は、EBPM・統計・メタ分析をモチーフにした公式グッズの収益で支えられています。
1枚のTシャツやステッカーが、次のエピソードの制作費になり、あなたの持ち物がEBPMの会話を始めるきっかけになります。
公式グッズで応援する